江戸川区 の不動産
東京都の南東端にある区。東は千葉県市川、浦安(うらやす)両市に接する。1932年(昭和7)南葛飾(かつしか)郡の小松川、松江、小岩(こいわ)の3町と葛西(かさい)、瑞江(みずえ)、鹿本(ししもと)、篠崎(しのざき)の4村が合併して江戸川区となった。江戸川が東の千葉県境を流れるが、かつては渡良瀬(わたらせ)川の下流で太日(ふとひ)川(太井(ふとい)川)とよんだ。17世紀、利根(とね)川改修のとき、江戸に通ずる唯一の水路という意味で江戸川とつけられた。区名は江戸川の川名による。
区域は、この江戸川と荒川(放水路)の間のきわめて低湿な沖積地にある。わが国のキンギョ三大産地の一つとして知られる春江(はるえ)、一之江(いちのえ)両町を中心とした地区は、この低湿地を利用したものである。東京近郊の農・漁業地帯として知られ、とくに鹿骨(ししぼね)地区は花卉(かき)栽培、篠崎地区は葉菜類の栽培地である。なお、葛西の沿岸はノリ養殖が盛んであったが、第二次世界大戦後の埋立てによって消失した。また、ガラス容器の江戸切子(きりこ)をはじめ、和傘、風鈴、ざる、扇子、染色、竹製品、よしず、縁起物の熊手、凧(たこ)、投網など、江戸下町の伝統を継ぐ工芸品が多く残っているのも特徴的である。
区の南部は都区のなかで都市化のもっとも遅れた
投資信託であったが、1969年(昭和44)営団地下鉄(現東京メトロ)東西線、86年都営地下鉄新宿線が開通(1989全通)するに及んで、高層のアパート群が建設され、JR京葉線(1990全通)の開通で開発はさらに進んだ。京葉線沿いには首都高速道路湾岸線も通じ、従来の農・漁村風景を大きく変えている。一方、区の北部、千葉街道(国道14号)とJR総武本線の通る地域は、古くから開発が進んだ。最北部を京成電鉄本線が横切っている。南北両地域の間を首都高速道路7号小松川線およびその延長の京葉道路が、また併走する荒川・旧中川沿いに同中央環状線が通じ、都心と千葉県、湾岸と葛飾・足立方面を結んでいる。北部の中心、小岩は、正倉(しょうそう)院に保存されている8世紀の戸籍にその名がみえる古い地名。区の中央には新中川が南流し、低地のため、高潮から守るための防潮堤が1957年河口部に完成。江戸川と旧江戸川の分岐点には江戸川水門がある。
おもな名所としては、一之江名主(なぬし)屋敷(都指定史跡。元禄(げんろく)のころから代々名主を勤めた田島家の住宅)、江戸五色不動の一つの目黄(めき)不動(最勝(さいしょう)寺)、豪壮な枝ぶりをみせる善養(ぜんよう)寺(小岩不動)の影向(ようごう)の松、幟(のぼり)祭で知られている浅間(せんげん)神社などがある。スポーツセンター(1981完成、以下同)、総合文化センター、総合レクリエーション公園(ともに1983)、総合区民ホール(1999)などのスポーツ・文化施設が充実しているほか、汚濁河川をよみがえらせた複数の親水公園や稼働率約90%の区営「ホテルシーサイド江戸川」、川の下を利用した新川地下駐車場などユニークな施策が目につく。東京湾に面して葛西臨海公園・海浜公園と葛西臨海水族館(ともに1989)があり、区営ホテルもその園内にある。面積49.86平方キロメートル(荒川河口部の面積を含まず、一部境界未定)、人口65万3944(2005)。
もともとイオンは、地に足がついた経営が特徴だった。ところが90年代に入り方針を転換したかのような出店ラッシュである。その背景にあるのが、経営者の代替わりだ。戦後、ジャスコを大手スーパーにまで引き上げたのは、岡田屋呉服店の末裔である岡田卓也氏だった。しかし97年に長男の元也氏を社長に就任させ、自らは2000年に会長職も降りて経営の一線から退いた。
元也氏の社長就任の時期は、
資産運用の経営不振が表面化したのとほぼ重なる。そしてダイエーに取って替わって、イオンは積極的に経営拡大に取り組み始めた。
岡田家には代々「大黒柱に車輪をつけよ」という家訓がある。動かないはずの大黒柱に車輪をつける、すなわち変化に素早く対応しろという意味である。岡田卓也氏はその家訓に従って、衰退業種である呉服店に見切りをつけ、スーパー業界へと進出した。そして元也氏は、GMSという従来型総合スーパーへの限界を感じ、郊外型SCとM&Aによる規模拡大へと舵を切った。
この戦略のもと、イオンは売上高10兆円、世界の小売業ベスト10に入ることを目標に掲げた。バイイングパワーは規模に比例する。規模が大きくなればなるほどメーカーとの交渉力は増していく。また、PB商品(イオンの場合ならトップヴァリュ)の開発にも有利に働くことは明らかだ。
埼玉県越谷市に誕生した「イオンレイクタウン」。とにかく大きい。
第2のダイエー?
この戦略はうまくいっているように見えた。下のグラフを見ればわかるように、イオンの売上げは伸び続けた。それに伴い利益も、07年2月期までは増益を重ねてきた。
しかし、もう1度グラフをよく見てほしい。多少わかりにくいが、売上高の伸びに比べ、利益の伸びが小さいことがわかるだろう。本来とは、規模が大きくなればなるほどその果実が大きくならなければならない。ところがイオンの場合、そうはならなかった。ここにイオンの誤算があった。
その一方で、着実に増えていったのが有利子負債だった。2001年2月末には6962億円だった有利子負債残高はこの8月末には1兆1309億円に達している。旺盛な資金需要をまかなうために、イオンは過去2回の増資で3000億円を手当てしてきた。しかしこれだけで足りるはずもなく、その結果、有利子負債が膨らんだというわけだ。そしてここに消費不況が直撃した。
冒頭の岡田社長の発言にもあるように、異変は1年ほど前から表れた。そこでイオンは一大決心をする。
「今年4月、岡田さんは新しい3ヵ年計画を発表しました。そこでは、国内の総合スーパーを100店閉鎖するとともに、大型SCの開発も、これまでの半分程度のペースに落とすとしています。これまでの、規模を追求したイケイケドンドン経営から、収益重視経営へと転進したわけです」(流通ジャーナリスト)
しかし荒波は岡田社長の予想より高く、そして速く到達したようだった。その結果が、前述の8月中間期の赤字転落である。
そのためイオンではリストラ計画を加速するとともに、店舗の証券化で3000億円を確保し、負債削減などを進めることにしている。その姿は、暴飲暴食の結果、メタボになった人が、体調不良をきっかけに懸命にダイエットに励んでいるように見える。しかし
外国為替証拠金取引がうまくいくとはかぎらない。
「いまの環境下で、不動産を証券化したところで誰が買うというのだろうか。3000億円という目論見どおりにいく保証はどこにもありませんよ」(前出のジャーナリスト)