東急電鉄 の不動産
東京急行電鉄株式会社(とうきょうきゅうこうでんてつ、英称:Tokyu Corporation)は東京都南西部から神奈川県東部に路線を展開して鉄軌道事業などを行う日本の会社である。略称は東急(とうきゅう)。
公式略称は「東京急行」としていたが、2006年(平成18年)1月1日より「東急電鉄」に変更した。それに伴い駅掲出のポスター・チラシ類、公式サイトやパスネットなどにおいて略称表記を順次「東急電鉄」に変更している。かつては英語略称として、(Tokyo Kyuko Kabushikigaisha)を使用していた時代もあった。パスネットの略号はTKだった。
東急グループの中核企業である東京急行電鉄は、その成り立ちから鉄軌道事業以外の事業割合が大きく、不動産事業、ホテル事業など、鉄軌道事業以外の収益が同事業の収益を上回り、グループ全体の収益は毎年1兆円を超える。単体売上高は近畿日本鉄道に次ぎ、連結売上高は日本1位、利益は連結、単体共に1位である(JRを除く)。グループ企業には、交通関係、開発関係、流通関係、リゾート関係、ホテル関係などに287社9法人が名を連ねる(2007年3月末現在)。
東京急行電鉄は、東急グループ内外を問わず東急グループの事業中核会社として認識されており、「電鉄本社」と表現されることが多い。
1947年から1972年まではプロ野球チームの「東急(急映・東映)フライヤーズ」(後に、日拓ホームフライヤーズ→日本ハムファイターズ→現在の北海道日本ハムファイターズ)を所有した。また、映画製作・配給を手掛ける東映(旧・東横映画)は1964年まで東急グループの傘下であったが、当時東映のオーナーだった大川博と東急側との間に溝ができ、東映側が独立したが、大川の没後東映社長となった東急派の岡田茂が取締役を務める等、東急との関係は部分的に残った。
また、かつてグループ企業に日本エアシステム(JAS、現・日本航空インターナショナル)があったことから、同社の株式移転により設立された株式会社日本航空(JALグループの持株会社)の筆頭株主だった。同社とは2006年春にJALと東急グループが提携
不動産投資を発行した。
沿革
東京急行電鉄の歴史は、成城などと並び、高級住宅街と称される田園調布の開発主体であり、渋沢栄一が非営利の事業として設立した田園都市株式会社の鉄道部門を1922年9月に分離した目黒蒲田電鉄(めぐろかまたでんてつ)に始まる。都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものである。戦後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている。
目黒蒲田電鉄は、
自動車保険と地権者が共同開発した分譲地と省線(現在のJR線)を結ぶ交通手段として設立された。開業に当たって、田園都市側は大阪の箕面有馬電気軌道(箕電。現在の阪急電鉄)で実績のあった小林一三に白羽の矢を立て、経営に参画するように求めるが、小林は固辞する代わりに鉄道省出身で未開業の武蔵電気鉄道(現在の東横線の母体)に携わっていた五島慶太を推挙した。こうして目蒲入りした五島慶太は陣頭指揮を執って同社を東都最大の私鉄に育成することとなる。
1923年3月に目黒 - 丸子(現在の沼部)間を開業し、11月には目黒 - 蒲田間(目蒲線、現在の目黒線および東急多摩川線)を全通させた。また、1927年から1929年にかけて大井町線大井町 - 二子玉川間を開通させた。また、目黒蒲田電鉄は1934年10月1日に池上電気鉄道(現在の池上線を運営)を、1939年10月1日に(旧)東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道の後身。現在の東横線および玉川線を運営)をそれぞれ合併し、10月16日に(新)東京横浜電鉄(とうきょうよこはまでんてつ)と改称した。この時に、現在の東急の基本となる路線がほぼ一元的に運営されるようになっている。
1942年5月26日に陸上交通事業調整法による戦時統制の背景もあり、同じ五島慶太が
社会保険労務士試験を務める(旧)小田急電鉄と京浜電気鉄道を合併して東京急行電鉄と改称した。1944年5月31日には京王電気軌道を合併した。また、この間の1943年には経営難であった相模鉄道の運営を受託している。さらに1944年2月には五島慶太が運輸通信大臣に就任した。路線延長約320km、北は中央線から南は三浦半島、西は箱根までをテリトリーとするいわゆる「大東急」の時代となる。
戦後は独占禁止法や過度経済力集中排除法が施行され、「大東急」はこれらの法律の適用から除外されたものの、「大東急も当てはまる」と主張する旧小田急電鉄関係者を中心にかつての4社への復元運動が勃発する。これを受けて経営陣は会社経営の民主化に乗り出し、まず1947年相模鉄道や静岡鉄道等傘下会社の持株の大部分をその会社の役職員などに譲渡し放出(相模鉄道の運営受託は持株放出直前の同年5月31日に終了している)。そこへ8月、五島慶太が公職追放に追い込まれる。そして1948年5月に百貨店部門を東横百貨店(現・東急百貨店)に分離し、6月に小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)を分離させ、大東急の「再編成」を行った。
その後、復帰した五島慶太の提唱する多摩田園都市構想に基づき、田園都市線を建設する。同線は1984年に全線開通し、多摩田園都市の基礎的インフラが完成する。1991年にはバス部門を分離し、東急バスとしている。
大東急の名残として
債務整理目蒲電鉄健康保険組合(1935年4月1日設立)を祖とし、東京急行電鉄、京王電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道、東映、関東バス及び小田急電鉄の母体事業所及び子会社等を含めた健康保険組合である、東京西南私鉄連合健康保険組合(1948年改組)の存在があげられる。近年、小田急グループは分離独立したが、2003年4月1日、東急車輛健康保険組合との合併を経て現在に至っている。また、合併されていた4私鉄は現在でも電動車の形式記号に「モ」ではなく「デ」を使用している。
東急のかつての主力車両8000系。 写真の8019Fは2007年12月に運用離脱した。2000年8月6日、混雑緩和を目的に東横線の多摩川 - 武蔵小杉間が複々線化され、目蒲線が目黒 - 武蔵小杉間の目黒線と多摩川 - 蒲田間の東急多摩川線に分割された。翌9月26日からは目黒線と帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)南北線・東京都交通局(都営地下鉄)三田線との相互直通運転を開始し、翌2001年3月28日からは埼玉高速鉄道線へも相互直通運転を拡大した。
2004年1月31日をもって東横線の横浜 - 桜木町間を廃止し(列車の運転は30日終電まで)、1日置いた2月1日より横浜高速鉄道みなとみらい線元町・中華街駅までの相互直通運転を開始した。
2005年3月20日の運賃改定では、特定都市鉄道整備事業計画の下で行われてきた田園都市線渋谷 - 溝の口間を含む区間に対する10円の加算運賃が廃止された。